loss
目を覚ましたら引っ越していた。 ハートの城と忌々しい帽子屋屋敷が消えていて。 ―― 居候が一人、消えていた・・・・・ 「・・・・ありがとうございます。時計屋ユリウス・モンレー・・・・」 怯えと侮蔑を隠しきれないような謝意にユリウスはそちらも見ず退出を促すように手を振った。 それ以上なにも用のない顔無しがそそくさと扉から出て行くのを音だけで確認して、ユリウスはふっと息を吐いた。 いつも通りの反応、いつも通りの仕事。 なにも変わらない。 ずっと繰り返してきた事だ。 ただ・・・・ 『お疲れさま』 耳を掠めた声の残像にユリウスはこの上なく嫌そうに顔をしかめた。 一つだけ欠けたもの。 これまでのユリウスの時間からすればほんの僅かしかないはずの特異な「日常」。 がたん、と音をたててユリウスは仕事机を離れた。 仕事部屋に隣接している小さなキッチンにコーヒーを入れに行く。 しばらく仕事漬けで机に向かいっぱなしだったから少しだけ体をほぐしながらキッチンに入ってポットをかける。 『フィルターを変えると本当に味が変わるのね』 コーヒーを入れる道具を準備していたユリウスの手が一瞬止まった。 その先にはネルのフィルター。 感情を押し殺すように淡々とユリウスはそれらをセットして湧いたばかりのお湯を注いだ。 途端に流れ出す芳醇な香りに僅かばかりため息をつく。 かけっぱなしだった眼鏡を外して眉間の皺に指を当てた所でユリウスは大きく首を振った。 「・・・・馬鹿らしい。」 吐き捨てるように呟いてコーヒーをカップに注ぎきる。 そして仕事机に戻ろうとして。 ―― 無意識に・・・・ 本当に無意識にソファーに視線を走らせた。 ・・・・ソファーに一人の少女がいた。 スカイブルーのエプロンドレスと共布のリボンを髪にとめた少女。 その服装ほどは幼くない彼女の瞳は膝の上に置かれた本のページをひたすらになぞる。 見ているだけで少女が本好きな事がわかりそうなほど没頭している様子で。 そして何かに気が付いたようにふっと顔を上げる。 肩口にかかっていた茶色の髪が滑って本から向けられる空色の瞳。 『ユリウス?』 「っ」 ガシャーンッ! 手から滑り落ちたカップが床で砕ける音に、ユリウスははっとした。 目の前にあるのはただのソファーだけ。 そこには誰も居ず、見慣れた自分だけの部屋があるばかりだった。 「・・・・くそっ・・・・・!」 悪態をついてユリウスは広がっていくコーヒーの染みも無視して仕事机に乱暴に座った。 ―― 目を覚ましたら引っ越していた。 ハートの城と忌々しい帽子屋屋敷が消えていて。 居候が一人、消えていた・・・・ただそれだけのこと。 この世界にはよくあることで、当然ユリウスだって引っ越しは初めてではない。 ハートの城が消えるのも、帽子屋屋敷が消えるのも初めてではない。 ・・・・けれど、居候が消えたのは初めてだった。 アリス=リデル ―― 白ウサギが引っ張り込んだ余所者。 目が覚めた時、アリスがベッドにいなくなっていたのを見た時は「ああ、そうか」と思っただけだった。 弾かれたのだ、と。 アリスは何を思ったかこの時計塔に居座ってしまった闖入者で、別段ユリウスにとっては決まった存在ではなかったから。 ただの居候だった。 口が達者で頭が良くて意地っ張りで、少しだけ寂しがり屋なアリス。 極度の偏屈で通っているユリウスに臆することも怯えることもなく憎まれ口を叩き、辛気くさい仕事を見ているのが好きだと言った変わり者。 人の気も知らないで、「ここに居たい」などと言って元の世界を捨てた少女。 (あいつは「ここ」が「時計塔」だなんて言っていなかった。) そんな事はわかっているつもりでいたし期待もしていなかったつもりなのだが、今の体たらくを見ているとそうでもなかったらしいとユリウスは自嘲した。 ただの居候だったのなら、引っ越しで消えたぐらいでおかしくなるはずもない。 この部屋はどこへ行っても何をしていてもアリスの影が追ってくる。 目を開けていても閉じていても同じ事。 「本当に・・・・質の悪い女だ。」 最初は嫌ではない、程度の認識だったはずなのに、仕事を手伝ったりコーヒーを入れたりしているうちに家族のように懐かれた。 無意識に背伸びしようとしている少女が、同じく無意識に気を許してくれているのが少しくすぐったいような気がして。 なんとはなしに構ってしまっているうちに、何も言えなくなった。 胸の内に悪い冗談のように巣くった想いを。 ただ人の気も知らずに他の領地に遊びに行ったまま帰ってこない事にイライラして、人の気も知らずに他の男の話をするのにムカムカして、人の気も知らずにおやすみのキスをねだる姿に頭を抱えた。 それでもアリスとの間にある穏やかで静かな空気を壊したくなかったのだ。 言ってしまえば変わってしまう。 それを恐れて口には出さず、帰るはずだったアリスが残ったことに安堵していた。 何の約束もなく、何の特別さもない。 そんなあやふやな関係をこの世界は許してはくれなかった。 無意味なものなど無くても同じ。 だから、アリスは弾かれた。 (・・・・否、単にあいつが何も想っていなかったというだけのことか。) アリスの方でもユリウスと同じように想っていてくれたなら弾かれなかったのか、それはもうわからない。 ユリウスにわかるのは、ここにいた時のアリスにとって自分は家族と同じようなものだったというだけだ。 家族と離れるのは少し淋しいかも知れないが、すぐに忘れるだろう。 何処か別の場所で、特別な者と出会えばユリウスの事などあっと言う間に思い出だ。 ユリウスはぎりっと唇を噛み・・・・・静かにため息をついた。 「・・・・今思えば言わなくて良かったのかもしれないな。」 この世界のあやふやさに紛れてしまうような無意味な関係だったのなら、言った所であの空気を壊しただけだったかもしれない、と。 そう思って自嘲気味にユリウスは顔を歪めた。 どのみち、あの自由奔放なアリスのことだ。 次に会う時には特別な誰かと一緒にいてユリウスには口にする機会も与えられないだろう。 暫く何かに耐えるようにユリウスは目を覆い・・・・そして顔を上げると立ち上がった。 やっとコーヒーカップを片づける気ぐらいにはなったから。 残像はいつかは消えるだろう。 それまでがどれほど拷問のような日々でも。 カチカチカチ・・・・ 無機質な時計の音が響く。 それ以外はユリウスが動く落としかしない親しんでいた日常だ。 決定的なものが欠けてしまった無機質な日常。 カチカチカチ・・・・ ため息をついて机から離れる。 その時 カチカチカチ・・・・・・・・・・・・・・キィ ノックもなしに扉が開く音がして 「・・・・ただいま」 居なくなったはずの居候が戸口で泣きそうな顔で笑った。 〜 END 〜 |